東京高等裁判所 昭和62年(う)7号 判決 1987年4月07日
主文
本件控訴を棄却する。
理由
所論は、要するに、原判示のため池(以下「本件ため池」という。)があった場所は、神奈川県秦野市菩提二一六番の土地であるのに、これを同所二一七番の土地であると認定した点、被告人には、甲野花子(以下「被害者」という。)のような幼児が、本件ため池に転落することを予見し得る可能性がなかったのに、この予見可能性を肯定した点、及び被害者の本件ため池における転落死の原因は、あげてその母親の監護責任のけ怠に帰せられるべきもので、本件ため池の周囲に設けられていた防護さくの破損箇所の不補修放置とその転落死との間には相当因果関係がないのに、これを肯定した点において、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。以下、順次検討する。
一本件ため池の所在について
原審が取り調べた関係証拠によると、所論が指摘しているとおり、本件ため池があったのは、神奈川県秦野市菩提二一六番の土地であるのに、原判決はこれを同所二一七番の土地であると判示しているが、右は単に本件ため池があった被告人所有の土地の地番の表示を誤ったというに過ぎないもので、これによって被告人の本件過失責任が左右されるものではないから、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認には当たらない。論旨は理由がない。
二予見可能性及び因果関係について、
1 原審が取り調べた各証拠を総合すると、本件ため池があった付近一帯は、もともと純然たる農村地帯であったが、近年宅地化が進み、被害者宅らの家屋が段々に建ち始めて、住民の数も次第に増え、土地の事情を知らない者たちが、付近の畑で遊んだり散歩したりする姿がよく見かけられるようになっていたこと、このような中で、被告人は昭和五八年夏ころ、豚のし尿を集めて畑の肥料にするため、自己所有の前記二一六番の畑の北西角の部分を掘って、南北の長さ約六・五メートル、東西の長さ約四・六メートル、中心部の深さ約二メートルのほぼ長方形の本件ため池を造り、これを自らが管理して、その中にし尿を貯蔵していたこと、本件ため池の場所は、周辺に川や生け垣等があるにしても、余人の出入りが全くできないような所ではなく、現に被告人も本件ため池を造った際、人が入って来て転落等に至る危険を防止する措置として、その周囲に何本かのくいを打ち、これらのくいに、地面からほぼ二〇ないし三〇メートルずつの間隔で、三段に有刺鉄線を張り巡らせ、大人がまたいでも、子供がくぐっても中に入れないようにした防護さくを設置していたこと、ところが翌五九年夏ころ、近隣の数名の小学生らが本件ため池のすぐ近くまでやって来て、防護さくの有刺鉄線を棒切れでたたいて、これをくいにとめておいたくぎとともに外してしまい、被告人もこの情景を目撃していて、右さくが前記のような危険防止に役立たなくなったことが分かっていたこと、被告人が同年一〇月中旬ころ農作業をしていた際に、本件ため池から八〇メートル程離れた家に住む被害者の母甲野松子が、長男の太郎及び長女の被害者の両名を連れて、被告人方の畑を通り、本件ため池の方へ歩いて行く姿を見かけたこと、本件ため池のし尿面と周囲の地表との間には約四〇センチメートルの段差があったが、し尿の表面には一面に泡が出ていて、農村生活を知らない子供には、そこが危険なため池であることがわかりにくい状態にあったことが認められ、これらの具体的事情の下においては、被告人のみならず被告人と同様の立場におかれた者には、本件のような転落事故の発生を予見することが可能であったものといわなければならない。
2 原審が取り調べた各証拠を総合すると、被告人には、本件のような転落事故の発生を予見することが可能であり、その発生を回避するため原判示のように防護さくの破損箇所を補修する義務があり、かつ、被告人がこの補修をするのは容易なことであったのに、仕事や母親の看病などに追われて補修をせずにいたこと、同年一二月一四日正午過ぎころ、前記甲野松子が太郎(当時三歳)及び被害者(当時一歳六箇月)の両名を伴って、自宅近くのごみ置場に赴き、五分程同所の掃除をしていた間に、付近で遊んでいた右両名の姿を見失い、方々を探しているうちに、太郎は無事見付けたものの、同日午後一時ころになって、被害者が本件ため池に落ちて浮かんでいるのを発見し、急いで引き揚げたが、被害者は既にでき死していたこと、被害者は誕生日を過ぎたころから歩き始め、当時はかなりの早足で歩きまわるようになっていたこと、被告人が防護さくの補修をしておけば、被害者の本件ため池への転落は防止できていたことが認められる。たしかに被害者の母親には、右認定からも明らかなとおり、その年令及び歩行状況等からみて、片時も目が離せない被害者に対する監護責任を果たさなかった過失があり、この過失も被害者の本件転落死の原因をなしているものといわねばならないが、そうだからといって、先に肯認した被告人の防護さくの不補修放置と被害者の転落死との間の因果関係を否定し去ることはできない。
以上を要するに、本件について、所論の予見可能性及び因果関係を認め、過失致死罪の成立を肯定した原判決は正当であって、所論にかんがみ記録を精査検討しても、原判決に所論のような事実の誤認があるものとは認められない。論旨は理由がない。
よって、刑訴法三九六条により、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官坂本武志 裁判官田村承三 裁判官本郷 元は差し支えのため署名押印することができない。裁判長裁判官坂本武志)